漏れvs希死念慮

 はよう希死念慮が勝つ場面にお目にかかりたいもんですね。

 

 

 人生最初の自殺未遂はもう6年前のことになる。

 プライドを裏切るほどの成績不振に耐え切れなかった自分は、学校の最上階から飛び降りを図り、あと手を離せば地球とキッス待ったなしという状況下で、誰もいない教室に何故かやってきた部活の先輩に見咎められ、身体のどこを痛めることもなく終わった。

 

 6年経った。あの時ほどいいところまでいった自殺はそれ以来ついぞ無かったが、この6年間で「生きていきたいな」と思えた瞬間も同様にやってこなかった。

 人生は怠惰に進行した。中高一貫ゆえに起伏もなく高校3年生になり、第一志望の国立にはカスりもせず、レイプがお家芸の私大に転がり込んだ。満足いくわけもなく、入学前の春休みに2回目の未遂があった。激情に駆られた初めてとは異なり、毎日深夜に静かに死を願った末の逃避だった。

 そして何も成す事はなく大学3年の冬がやってきた。始まった就活で、経歴だけを見て順調だねと評した人事がいた。確かに浪人も留年も無かったが、その実中身も無に等しい。次のステージへの招待は届かなかったし、人事に見る目はあったわけだが。

 

 本当に耐えられないなら死にたどり着けたはず、という仮定をすれば、俺の自殺未遂は気の迷いということになってしまうらしい。

 成績不振で死のうとしたくせに、その後さらに成績が降下してもヘラヘラしていた。入る前から死のうとするほど自尊心が傷つくような大学に、いまや多少の愛着すらある。

 それでも、あの時死にたいと心から願った感情は嘘じゃない。6年間ずっとリフレインしている感情が気の迷いなわけはない。ならば正解はなんだ。普通の人間よりヒット・ポイントが低いのか。防御力が低いのか。精神力がないのか。その全部か。

 

 

 そろそろ筋の通った文章を書きたい。

 個人主義の時代と言われ、様々な人権が認められ、一周回って人権と人権のぶつかり合う窮屈な世界と化した現代であるが、「自分の人生を自分で終わらせる権利」というものはあまり万人に受け入れられる価値観ではないらしい。

 用途を安楽死、それも治る見込みのない重病人が痛みに耐え切れず選ぶ選択肢に限ってなお、法と倫理がオラついてくるのが現状だ。技術は間に合っているが、それが自業自得の自殺志願キモオタクに回ってくるよりは、痛みと恐怖に打ち克ってティピカルな自殺をキメる方が早そうだ。

 計画的に自殺を試みた人間というのは、激しく、それでいて刹那的な痛みと、これから人生を全うに完走するまでにじわじわと嬲られる苦しみ、この二つを天秤にかけた人間が多いのではないかと思う。少なくとも自分はそうだった。

 もし今すぐ安らかに死ねるというなら、その天秤がどちらに傾くかなんてのは考えるまでもない。人生は辛くて重い。

 

 生きる以上常に苦痛、ストレスがつきまとうことは小学生でも体感している。それが社会人ともなれば苦痛の量はそれまでの人生の比ではないのは明らかだ。

 その苦痛を健常者*1はどう乗り切っているのか。「何かの為なら頑張れる」というメンタリティが大なり小なりあるのではと推測する。少なくとも、自殺した人や死にたいと口に出す人に対して自分の成功体験を語り出す謎の勢力の説話をみるにそう感じた。

 それに照らし合わせるなら、自分は「頑張って得たいものは別に何もない」。

 生死が関わらない問題でも、無気力という性質は俺の根本的な問題かもしれない。

 成績優秀者でありたいが、勉強するほどじゃない。

 良い大学に行きたいが、対策するほどじゃない。

 オタク本を買いたいが、有明にいくほどじゃない。

 金は必要だが、バイトするほどじゃない。

 人と楽しく遊びたいが、家を出るほどじゃない。

 ゲームは面白そうだが、PCを付けるほどじゃない。

 休日は大概、布団で眠っているかスマホを見ているかでほぼ24時間を使い切る。親指を動かすくらいは、得られることに見合った活動だ。面倒くさくない。弱いのは欲求なのか、行動力なのか。

 

 クソ私文大学生だからどうにか生きてこれたが、社会に出る事と直面せざるを得なくなった今、希死念慮が増大してきたのを感じる。今までとは違う、悲痛でも怒りでもない、ただただ、「無理」という諦念。

 夏にとある日系コンサルの社畜体験キャンペーン*2に参加し、6時に起き22時に帰ってきて、出社中に終わらなかったタスクをしばくために2時まで奮闘するような生活を数日送った。逃げ出したいほどじゃなかった。だが無価値だ。

 最終日、家に帰ってきて本棚を眺めた。そろそろ120冊に近づきつつある百合漫画を見て、捨ててしまいたいと強く思った。

 読む余裕が時間にも肉体にも無くなっても持っていたら、自分が惨めで、無力で、きっと泣いてしまう。

 つまるところ、俺は何かに熱中できる、オタクですらなかったらしい。

 

 働かなければ金は貰えない。金がなければ飯が食えない。飯が食えねば生きていけない。多くの人が当たり前に乗り越えていくところで、どうにもつまずいてしまった。

 きっと俺の人生は、働いて維持したいほどじゃない。

 何かの為に行動を起こせなくなった自分にとって、人生とは、明日の苦痛を味わうために今日の苦痛を耐えしのぐ、サイクル以外の何物でもないものになるだろう。そんな予感がここ数日自分を支配している。

 今はまだ親が餌を食わせてくれる。大学生という社会的価値が寝ているだけで生かしてくれる。

 生きたくないが、死ぬほどじゃない。今はそう思えている。良い事だとは思わない。

 生きたくないという欲求が勝つか、死ぬくらいならいいかと価値が上がるか、バランスが崩れた時が三回目になるだろうなあ。

 

 

*1:ここでは”オタク”の対義語として、まっとうな人生を歩む人間の総称として用いている

*2:インターンシップ