3月1日

 3月9日という曲がある。

 自分は男子校出身のキモオタクだから馴染みがないのだが、どうも世間では卒業ソングとして親しまれているらしい。(それはリスナー側の認識であり曲自体は結婚を祝う曲らしいが)

 そもそも卒業式の日程なんぞ学校によって違うし、同じ学校でも年度によって違ったりする。この日付を世間が卒業の象徴と認識したのはかなり強気なんではないかと思う。

 

 その一方で、日本全国、ここ数年、明らかに統一されている日付がある。

 3月1日。就活解禁日だ。

 

 

 厳密にいえばこの日以前から大多数の企業と学生は採用/就職活動に手を染めている。自分も去年の夏にはいくつかのインターンシップに参加し、そのうちの2社は去年のうちに裏ルートで選考を受けている。両者ともに経団連加盟企業であるから、恐らくルール違反だ。

 この形骸化したルールは来年には撤廃されるらしい。まあ当然ではあるが、形骸化した経緯を無視して捻れを見た目だけ解消したところで、何も解決することはないだろう。

 頭がおかしくなった企業が青田買いをキメ、賢い奴らはさっさと日本から出ていき、賢いフリが得意なバカは知るカフェで「大学で勉強することに価値などない」とほざき、俺のような陰キャはインターネットをエチケット袋代わりにゲロを吐く。

 きっと今と何も変わらない。だが、3月1日を唄うことができるのは俺たち20卒が最後だ。せっかくなので、就活ルールに対する鎮魂歌、いや讃美歌を撒き散らしてみるのもいいかと思いこれを書いている。

 

 

 

 そもそも就活というイベントは就職したい人間の為のやることだ。就職したくない人間が就職のために活動するのは間違っている。

 以前の記事で書いた通り、自分の人生は就職しておまんま食ってまで維持したいものではないと感じている。人生でやり残したことはレズセックスくらい。どう頑張っても不可能なんで、要するに生き甲斐皆無。

 そんな死にたい眠たいだけで一日の発声を終えられる人間であるはずの俺が、どうしてマイナビリクナビのお世話になろうとしているんだ?自己矛盾じゃないか?生きたくないやつが何故就活準備で暗い気分にならなくてはいけない?Amazonで丈夫なロープを探す方が有意義なのでは?

 数時間前から頭の中が?マークで埋め尽くされている。そして微かに残る健常者の自分が、その?マークを現実逃避だと切り捨ててエントリー企業の厳選をしている。誰も、何も正しくない。

 

 昔はなんだか自分のことを、何かを変えることができる人間だと思っていたような気がする。もちろん今ではその誤解した全能感の呪縛は解けた。だが人事は頭が悪いので、就活生に何かを期待しているような振る舞いを見せようとする。

 人事が(大学出たてのガキに何か出来るわけねえだろ)と思いながら学生が入社後に成し遂げたいこと、提供できる価値を問い、学生は(お前んとこ新卒にやりたいことなんかやらせねえだろ)と思いながら前もって用意した聞こえの良い答えを返す。

 実にくだらない。ここで問われているのは何なんだ?前もって面接の準備をする周到さか?綺麗ごとを笑わずに口にできる営業力か?ムカつく奴の前で笑顔でいられる演技力か?どれも社会で必要な能力だ。採用/就職活動は確かに狂っているが、その先にある社会も狂っているからそれでいいのだ。

 

 真に社会を良くしたいなら、自分も人事も来年の四月には話したこと忘れてる面接で理想なんか語ってないで自殺した方がいい。俺は多分スーツを着たオートマトンになるより、『慶大生、就活苦で自殺か』という見出しになった方がよっぽど人類社会に貢献できそうだ。もちろん一過性だが。なんにせよ自分の希死念慮に社会が勝手にテーマを付与してくれそうな齢まで俺は生き永らえた。

 いずれにせよ、自分の価値を人質にとれば少年時代のような全能感が返ってくるような気がして、俺は今3月1日0時を待っている。