クズの力学

 

序文

 今年の2月に、24歳になった。未だ就労していない。

 

 この記事のタイトルは、本当は『クズの哲学』とする予定だった。

 齢を一つ重ね、野獣先輩と同じ境遇になったのを機に、最近の言動や考えてることについて日記的に書くつもりだった。

 しかしよくよく考えれば、俺に哲学などあるだろうか。あるのは、起きて、食って、文字通り最低限だけ勉強し、残りの時間は全てゲームに費やして寝るだけの、”低きに流れる”の極致のような生活。哲学とか、信念とかは、俺の人生とはとてもとても遠いところにある。

 周りの人間がどんどん社会に出て活躍している*1中、未だ無収入を貫く俺の行動原理は、最近になってより損得勘定や好悪感情に正直になったと思う。面倒なことはやらない。何もせず得られる僥倖に、感謝はすれど罪悪感など感じるはずもない。

 今の俺の生き様は物理法則だ。言語化の必要すらないくらいシンプルな、感情と価値観の玉突き的運動。それはまさに力学と言うべきだと思う。だから……『クズの力学』。クズ人間に、哲学など無い。

 

 

 

 

最近の競馬

 ダービーを武豊が勝った。宝塚を天皇賞馬が完勝した。レースレコード・コースレコードのおまけつきである。

 馬券に関係なく「良い物見たな」と思えるレースは素晴らしいし、俺はダービーとグランプリに関しては、金勘定よりもそういうレースを見たいという思いが大きく先行する。先に挙げた二つのレースはまさにそういう一戦だった。

 クズとギャンブルの親和性は良いはずだが、実のところ、俺は馬以外にはほとんど興味がない。パチスロは未経験で、船とバイクは全く知らない。自転車だけ今年の初め、購入サイトに登録したとき貰えるポイントで遊んだが、イマイチ性に合わなかった。

 競馬が自分の中で趣味として抜きんでる理由は何だろうか。血統や歴史の産むロマンは勿論競馬の大きな特徴だが、他の公営競技にだって魅力的な予想ファクターはあるだろう。

 逆張り心が満たされるのが良いのかもしれない。「ほら、俺の言ったとおりになっただろ?」、というメンタリティだ。競馬というフィールドには、これを味わうためにのめりこんだと言ってもいい。ただの運任せで預金残高が増えたり減ったりするのは、ノーサンキューということらしい。

 では金を賭けなくてもいいのではないか?ごもっとも。しかし、金を賭けていない人間の「先に言うとった!」はあまりにも軽い。つまり俺は、重み付けに金を払っているのだ。こりゃもう重症ですわな。重賞、重畳……ナンチッテ。

 

 

 

最近の就活

 してない。してないことについて書くことは無い。

 親のコネで受けた会社に落とされたのは結構凄いことだと思うし、親がそれ以来諦めムードを漂わせ始めたので、頑張ってるフリすら必要なくなった。やったね!

 

 

 

修士論文を代わりに書いてくれるサキュバス

 

「好みの異性のタイプは?」

 

 この令和の時代、多様性の観点やらなんやらで不適切な質問だと思うし実際減ってはいると思うけれど、そういうのを抜きにした上で、いざ聞かれてしまうと、真剣に考えてみても、俺は全然答えられる気がしない。

 どうにも、構造的な問題があるような気がしてならない。要は「どこまで言っていいの?」という前提の共有が不足するということだ。

 

 「乳がありえんほどデカくてえっちな事と俺のことが大好きなヤンデレお姉ちゃん!」と即答する奴がいた時の事を考えてみてほしい。少なくとも話が盛り上がる気はしない。

 これは一般的な認識としてこの質問が「付き合うとしたらどんな人がいい?」と近いニュアンスを持った質問だとみなされているからであって、”差別的な表現を含まない程度のプロファイリングや身体的特徴に済ませる”、”性的な言及は求めていない”、”非実在美少女の名前を挙げるのは論外”という前提が暗黙のうちに共有されているためである。

 先述した異常者は、別に日本語がわからないわけでも、会話が成立しないわけでも、つまらん嘘をついたわけでもない。が、場において求められている答えではない。健常者*2との会話は時に、こういう暗黙の前提が無限に存在する質問が出てくる。就活面接にも通じるところがある。恐ろしい。

 現実世界に生きている人間は、現実に根ざした会話を好む傾向にある。一方俺のようなオタクは極論の生き物だ。オタクなりに現実に足を着けて必死に答えてみたところで無駄である。「えっ……あっ……なんというか、とてもじゃないけどこっちが選べる立場じゃないんでわかんないっス、ハハハ……」

 終わりだ。

 

 人間って都合の良さをもっと肯定してもいいんじゃないかと思う。乳デカブラコンヤンデレお姉ちゃんを夢見る異常者がいたとして、それが存在するかはさておき、都合の良い回答を糾弾する必要は無くたっていいじゃないか。現実を見つつ、卑屈にならない、そんな奇妙なバランス感覚が要求されるなんてのは正直勘弁してほしい。

 100%都合全振りでも良いというなら、俺はどんな人のことが好きなのだろう。今抱えている不安や不満を全て解決してくれる、ひたすらに都合の良い存在。

 それが修士論文を代わりに書いてくれるサキュバスなのだ。

 

 俺が抱えている問題を解決してくれて、俺からのインタラクションを必要とせずに存在意義を勝手に確立してくれるファンタジーな存在を夢見ずにはいられない。部屋の掃除とかも得意だといいな。

 ここら辺でようやく気付く。俺の発露する欲望はあまりに安く、至近で、画一的だ。「今直面している苦境を無努力に打開したい」という意識が、好きな異性像にすら侵蝕しているということだ。

 マズローの欲求階層について引用するまでもなく、これはあんまりよくないことだと思う。クラスの低い窮地の解決で精一杯の生き方。一つ解決に失敗するたびにまともな死に方からは離れていっている気がする。かつて俺が人生に対して崇高な使命感を抱いていた若者だった頃には自殺未遂などもあったが、今や「痛いのはちょっとな~~~」などと惰性の生に100%支配され縄すらAmazonでポチれない。これって併せて勘定すると良いことなんですかね?悪いことなんですかね?みんなはどう思う?

 話が逸れた。被害者ぶってユーモアの欠片もない長文をタイプすることで精神的自傷行為に耽っているこのカスみたいな現状も、修士論文を代わりに書いてくれるサキュバスさえ現れればきっと解決するはずなんだ。本当なんだよ。信じてくれ……

 

 一応言っておくと、都合の良さを夢想することと、都合の悪いことにNoと言えることは同値でない。多分後者は、快適に、かつ、まっとうに生きる近道にだってなりうる。前者に溺れると、カス一直線だ。みんなは俺を反面教師に、後者だけ実現すると良いと思う。

 

 

 

三行でまとめると

 

・お金ないです

・内定ないです

・↑に対する危機感すらないです

 

 

 

*1:諸説あります

*2:オタクではない人間、の意